限り有る生命

限り有る生命

今日は3ヶ月に一度のベルルミエールの日。

向かう途中の電車で聖書を持っているお年寄りの団体がいた。

 

確かバイブルのどこかに自殺を禁忌とする文言があったと記憶している。 

だから、カソリック総本山たるバチカンがこのような見解を出すのは、当然だろう。 

さて、ここで問題がある。 

医学の発展のもたらした課題だ。 

 

「人の死」とは、何を意味するのかという課題だ。 

 

生命体として生命機能を喪失した時をもって死とするのか? 

これは、昔から取られてきた見解だろう。 

 

これとは逆に、身体は霊魂を納める器。だから、新しい次元に向かうに当たり、その身体を置いていくという考えもある。 

古代エジプトの宗教や、死者の復活を語るキリスト教は、この流れだろう。 

 

その遺伝情報が受け継がれる限り、生を続けるという考えもある。 

 

病などで、自分が自分でなくなる時を死とする考えもある。 

近年問題の認知症の罹患者などは、そうだろう。 

 

 

人の死を、いったいどうとらえるか。 

何を持って死とするのか。 

これを明確にし、統一見解をまとめない限り、この事案に限らず、議論が終熄することはあるまい。 

 

そしてこれは、霊魂や魂魄の存在を認めるか認めないか、信じるか信じないかと言うテーマにも共通する。 

 

「永遠の生」を信じるのであれば、身体は、ただの衣服と同じだ。 

「限りある生」を信じるのであれば、精神力や思考力などを抜きにしても、活かせ続けることを是とするだろう。 

 

いずれにせよ、多くの得心する答を見つけるのは、容易なことではあるまい。 

 

 

ある文学作品で、重要な脇役が、自分は何日後に死ぬと思いこみ、実際にその日に自然死を迎える話がある。(著者は忘れたが、「すばらしき冒険旅行」という表題で、オーストラリア北部で墜落した旅客機の生存者姉弟が、アポリジニの協力で南部の都市を目指す話だ) 

 

これは極端な例だが、最終的には本人、及び本人の意志を尊重する家族や周囲の者の判断に委ねられて当然だ。